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【おおはらリハビリ日記】健康でいる限り、手助けしていきたい。

生涯学習を通じた生きがいづくりを目指す「京都シニア大学」と、京都大原記念病院グループが連携して2019年から運営する「ウェルネス部」で思わぬ出会いがあった。脳出血をきっかけに京都大原記念病院で入院をされていた元患者様の山岡加代子さん(70)だ。

自宅を訪ねると「何糞(なにくそ)」と書かれた篆刻(てんこく)を見せてくれた。聞くと展覧会に出展した本人の作品だという。篆刻とは、石などに鉄筆(てっぴつ)という道具で文字を彫り、印をつくること。2018年に発症して以降、自身の体調、新型コロナウイルスによる展覧会中止などもあり、出展から遠ざかっていた。体調が回復して展覧会の開催が決まり、今年こそは出展するという気持ちをそのまま乗せた作品がとてもおもしろいと推されて出展したのだそうだ。今は発症後に退職した会社に復帰して仕事もしている。仕事に趣味に、忙しい毎日だ。

山岡さんが発症したのは2018年2月、京都御所近くで友人と会った帰りのこと。その日はとても寒く、近くの施設でトイレに寄って帰ろうと歩いていると徐々に顔が痺れ、ふらつきがひどくなった。「これはおかしい」と、近くにいた施設の警備員に助けを求めた。最寄りの病院に救急搬送されると、脳出血(高血圧性脳出血)が確認された。脳のなかでも生命機能を維持するうえで重要な役割を果たす「脳幹」で出血しており、医師には「亡くなってもおかしくなかった」と告げられたという。

普段の血圧はどちらかと言えば低いが、この時期は仕事、趣味、母の介護にと忙しく過ごしていた。友人と別れてスッと立ち上がった時にふらつく違和感があったそうだ。「今、思えばあの時に出血したのだろう。バイクに乗っている時でもなく、人がいない場所でもなく、助けを求められる場所で発症したことは不幸中の幸いだったかもしれない。」と振り返った。入院中の家事はヘルパーと弟夫婦の協力が得られて、治療に専念できた。

入院1週間が過ぎた頃にはじめた日記の1ページ目に『病気は自分で直そうと思い努力しないと直らない。ここまではみんなのおかげ。これからは自分の力で(原文ママ)』とあった。このページを見ながら、今があるのは「リハビリをがんばって良くなりたい」という想いがあったからだと思うと語った。2018年3月に京都大原記念病院に転院。車いす状態でリハビリを開始後、歩行器、平行棒、一点杖歩行と徐々に改善し、杖なしで歩けた時は思わず昔から縁がある金毘羅山※に手を合わせた。療法士が一緒に拝んでくれたことが嬉しかったと言う。

※ 金毘羅山:こんぴらやま。大原の西に位置する。

転院して1か月を経過した頃、療法士と頭のトレーニングを兼ねて動物の名前に限定したしりとりをしたら勝った。すると療法士がハンデを申し出てきたので、「いつでも退院できる」と自信になったのは笑い話だ。同じ病室になったルームメイトとの会話も笑いが多く、まるで女学校のように楽しかったという。それも刺激になったのだろうなと思っている。退院後は御所南リハビリテーションクリニックに約1か月通院。「自転車に乗る」という目標を無事に達成し、卒業となった。

前列 一番右が本人

退院翌年の2019年2月、京都大原記念病院グループ主催の公開講座に参加した。この時に、京都シニア大学ウェルネス部が立ち上がることを知り、幼馴染を誘って入部した。60代から80代まで約20名の部員とともに座学、運動、体力測定、大原散策などを楽しみ、会計も担当。体も元気になってくると、自宅近くの介護施設でアルバイトを始めた。そうこうするうちに、母も在宅で穏やかに看取ることができ、体も一層元気になると前の会社から「またうちでがんばってみないか?」と声がかかり週4回、仕事をしている。

今、こうして過ごしているのは、「リハビリをがんばって良くなりたいという想いがあったから」と振り返る。とは言え入院中に、気持ちがあってもどうにもならない現実があることも知った。今は「頑張ったらよくなる」と気軽に言うことを辞めた。入院中も医療スタッフが気軽に言わない理由が分かったと語った。
病気は経験して良かったとは思わない。ただ、長い目で人生を捉えると悪いことばかりではなかったと思っている。病気や年齢で体が不自由になった方を見かけた時に「あの人どこまで行くんだろう。大丈夫かな」と思いやれるようになったのは間違いなく病気をしたからだ。これまでたくさんの人に助けられた。これからは健康でいる限り、手助けしていきたい。

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