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【おおはらリハビリ日記】人生に定年はない。

地元大原に暮らす澤田正美さん(72)と出会った。きっかけは2022年秋、大原の地域団体と京都大原記念病院グループが協働する大原健康プロジェクトの開催地を検討していた時のこと。開催地として手を挙げたのが澤田さんだった。

22年12月 大原来迎町でプロジェクトを開催し挨拶する澤田さん

三千院門跡のほど近くで6代続く工務店を営んでいる。10名ほどの職人を束ねて京都市内一円で年間約30棟の一般住宅を手掛ける傍ら、町内会長や大原の氏神 江文神社の氏子総代などとして地元の地域活動にも携わる。

大原には代々続く家が多く、結(ゆい)という地域内のつながりを大切にされてきた。ところが、時代の移り変わりとともに薄れがちになり、新型コロナウイルスの猛威が追い打ちをかけた。大原は高齢化率50%を超える地域。コロナで閉じこもりがちになった高齢者に、地域で声をかけあう仕組みが必要だと思っていた。ちょうどその時に、参加者同士の交流というプロジェクトの趣旨を聞いて手を挙げたという。大原自治連合会、大原社会福祉協議会、大原体育振興会と協力して開催した第1回(22年12月)には約40世帯の町で40名が参加。反響を踏まえて開催した第2回(23年9月)には地元警察、消防、三千院門跡ご門主の参加などもあり活動の輪が広がった。参加者同士が会話し、活気と笑顔があふれた様子に「開催できてよかった」と聞かせてくれた。

地域を活気づける澤田さんだが、実はリハビリ入院の経験がある。きっかけは仕事現場での事故だった。2020年2月に3mほどの高さから転落して、股関節を骨折(寛骨臼骨折)。仕事帰りや朝のウォーキングを欠かさず体力には自信があった。とは言え70歳近くでの骨折に「さすがにもう現場に立つことは難しいかな」と諦めに近い不安もよぎったという。幸いプレートで固定する手術後の経過は良好で、状態が安定したことを受けて京都近衛リハビリテーション病院に転院した。当時は車いすだった。

2月にもかかわらず“汗びっしょり”になるほどハードなリハビリだった。しんどいという思いが自分を良くすると言い聞かせ、「現場復帰」と趣味の「ゴルフ」の再開を目標に取り組んだ。その甲斐あって徐々に歩けるようになり、同院屋上の周回コースも利用した。当時は新型コロナウイルスの検査や治療体制が確立しておらず入院中の制約も大きかった分、屋上コースの開放感は印象に残っている。手術から退院までの約2か月、職人達が現場を回してくれていたので、病室で事務仕事をこなしながらも安心して入院生活を送ることができた。

退院後、御所南リハビリテーションクリニックの通院を経て現場復帰した。今も骨を固定するプレートは残っている。怪我をする前の状態に100%戻ることはなく、今も痺れや冷たい感覚はあるというが「日常生活に支障はなくなった」という。なかば諦めに近い不安から仕事や地域の役割に復帰できた経験にリハビリの重要性を感じ、こうした経験を伝えたいという思いがあった。それがプロジェクト開催に手を挙げたきっかけの一つである。

現在、家業の現場は長男を中心に任せながら、自らは取引先との折衝や見積もり積算、図面の調整など事務仕事を中心に担当する。「計算で頭を使うからボケません」と、冗談を交えながら明るく近況を聞かせてくれた。職人不足に喘ぐ業界にあって、後継がいることは幸いなことだ。いずれは継承をと考えるが、体が動く限りは一人の職人として現役であり続けたいと考えている。そのためにも、仕事帰りや朝の時間で1日5㎞程度のウォーキングは欠かしていない。目標だったゴルフもラウンドできた。練習に行けておらずスコアは伸びなかったが、これからも変わらず「18ホールのドラマを楽しみたい」と聞かせてくれた。

ゴルフも楽しんでいる(後列右から4番目が本人)

骨折して手術を受けた時に「これから車いす生活になるかもしれない」と感じていたことを考えると、仕事に、地域行事にと忙しく過ごしていることは嬉しくもある。これからも生涯現役で地域を活気づけられるように、前向きに過ごしていく。人生に定年はない。

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