皇位継承に敗れて隠棲 風雅を友とし業平と交遊も
悲運の皇子-。これは惟(これ)喬(たか)親王[承和11(844)― 寛平9(897)]を形容する際によく用いられる表現です。親王は俗世の争いを避け、洛北の山里等で隠棲しました。大原はその隠棲地の一つであり宮内庁も正式に認める墓が存在します。これもあり今秋には明治時代以来約120年ぶりに「惟喬親王1120鑚仰御遠忌大法要」と銘打って法要が開催されることが地元紙などでも報じられました。今回はそんな惟喬親王にスポットを当てて大原の歴史を紹介したいと思います。
惟喬親王は第55代文徳天皇の第一子に当たり、その異母弟に惟仁親王がいました。惟仁親王は文徳天皇の第四皇子に当たりますが、母方の祖父であり当時摂政太政大臣であった藤原良房の後見の下、生後わずか8ヶ月で皇太子となります。一方で惟喬親王の母方には政治的勢力はありませんでした。
その後、文徳天皇が病床に伏せると、皇太子が幼少であることを危惧し、中継ぎとして第一子の惟喬親王に皇位を譲ろうとしましたが、かないませんでした。そして、当時わずか9歳の惟仁親王が56代清和天皇として即位し、良房が政治の実権を握ることになり、ついに惟喬親王が皇位につくことができませんでした。
無常を知った惟喬親王は都を離れ、文芸や狩猟などの風雅の世界に遊ぶことで紛らわされたといいます。姻戚関係にあり、同じく悲運の人生を歩んだ在原業平とはおおいに気があったと言われます。共に水無瀬(大阪府島本町)の離宮や天野川に近い渚の院(枚方市)で鷹狩りをされた話もあります。
親王は俗世の争いを避け、また病も理由に出家、小野の里(現在の大原)に隠棲し「小野宮」と呼ばれました。大原三千院に近い大原上野町や雲ヶ畑、大森東町(北区)などが隠棲地であったと伝えられています。
業平はある日、親王を訪ねていった際にこのような詩を残しています。「忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪ふみわけて 君を見んとは」(現実をふと忘れてしまうと、ただの夢だったのではないかと思います、雪を踏み分けて、あのように辺鄙な場所で、お目にかかるとは)と詠いました。小野に出家した親王の境遇をしのび悲しんだものです。
惟喬親王は隠棲地大森東町で50年余りのの生涯を閉じました。その遺言で亡骸は大原の地へと戻り、御殿裏に葬られ五輪塔が建てられました。親王の塔と言われるものは方々にあり、諸説ありますが、宮内庁から正式に認められたものは大原上野町のものです。今でも悲運の皇子としてその名を馳せています。
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