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隠棲の女院思いやる里人 紫蘇漬け込んだ野菜届ける

京都大原は市街から車で約20分という距離に位置しながら、豊かな自然に恵まれた希有の地域です。その歴史は古く、伝教大使最澄に由来する「三千院」や天台声明の音律の根源の地とされる「来迎院」、聖徳太子が御父用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる「寂光院」など古寺名刹が点在しています。
今回はその歴史を寂光院にゆかりのある「平家物語」を切り口に、ひも解いて行きます.

この地の歴史を語るうえで、平家の栄華と没落を描いた「平家物語」は重要なカギを握ります。この物語の中心人物建礼門院徳子(以下、徳子)がいます。

平家棟梁であった平清盛(1118-1181年)の娘にあたります。後に清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内し、後の安徳天皇を授かります(1178年生)。安徳天皇の即位後は国母となりますが、夫の高倉上皇、父の平清盛が相次いで病死し、源平の合戦に巻き込まれ木曽義仲の軍勢に都を追われてしまいます。平家が滅亡を迎える壇ノ浦の戦い(1185年)で、最期を覚悟した徳子は安徳天皇や平家一門と共に入水しますが心ならずも自分だけが生き残ってしまいます。

その後、京へ送還された徳子は我が子である天皇や、滅亡した一門を弔うため出家。京都大原の寂光院に入寺し、晩年をただただ冥福を祈って過ごしたと言われています。

後に徳子はこんな歌を残します。「思いきや 深山の奥に すまゐして 雲居の月を 外に見むとは」かつて雲居(皇居)から見ていた月を、囚われの身となって大原から見ることになるとは思わなかった、そのように解されるこの歌は、徳子の寂しげな心もしのばせます。

そんな様子を見た里人たちは、徳子を慰めようと、しそと漬け込んだ夏野菜を差し入れしたそうです。里人のやさしさと、そのおいしさにたいへん感動した徳子は、しそ独特の色合いと香りから、これを「紫葉漬け(むらさきはづけ)」と名付け、それが現在の“しば漬”になったのだと言われています(諸説あります)。また、地元の人からもらった京野菜を、徳子自身が漬けていたという話も伝えられています。

【参考】土井のしば漬けホームページ

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