皇室行事や警備で貢献 年貢や課役免除の特権も
大原から鯖街道(国道367号線)を少し下ると、京都大原記念病院グループの有料老人ホームライフピア八瀬大原Ⅰ番館も位置する「八瀬」という地域が広がります。比叡山の麓に位置し、大原と同様に京都の奥座敷として、有数の景勝地として知られています。この地もまた特有の歴史を持つ地域です。
「八瀬(やせ)」という地名の起源は諸説ありますが、西暦672年の壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が背中に矢傷を負いこの地に逃げ隠れたとされる故事に由来し元々は「矢背」として伝えられてきたことがあげられます。この地の里人たちはかま風呂を作り、この傷を暖め癒したとも言われており、この伝承にちなんで後に多くのかま風呂が作られ、中世以降、平安貴族や武士たちに「やすらぎ」の郷として愛されてきました。かま風呂は、むし風呂、いわゆるサウナ風呂の一種であり、現在もその最古の形式として八瀬川畔の旅館に姿を残します。
古くから八瀬で生活してきた人々は八瀬童子と呼ばれます。かつて天皇の大礼・大喪の際には葱花輦(そうかれん)を担ぐ駕輿丁(かよちょう)という役を務めていたことで知られ、現在も、京都三大祭の一つである葵祭には、天皇の輿丁(よちょう)の扮装(ふんそう)で参加されています。八瀬の村は昔から、皇室との関係が深く、後白河院の頃から八瀬童子は度々お供を勤めてきました。特に延元元年、後醍醐天皇が比叡山に逃れて来た時には駕興丁として、弓矢を持って道中を警備し、無事に延暦寺まで案内しました.
こうしたことがあって建武3(1336)年2月24日に八瀬の村人一同に対し、「年貢以下諸課役」など一切免除と御論旨を受け、歴代の朝廷からも同様の処遇を受けました。寶永4(1627)年に比叡山「延暦寺」との結界に関して訴訟問題が起こりますが、村人は御代々の御綸旨をもって幕府に上訴したところ、時の老中「秋元但馬守」は八瀬村に有利な裁定を下されました。これは、単に一小村の訴訟沙汰としては、余りにも大きな出来事でありました。村人は高恩報謝として、氏神天満宮の側に御綸旨宮を建て秋元神社(八瀬天満宮社内)として奉り毎年、体育の日の前日の日曜日に「赦免地踊り」を奉納しています。
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